5時から作家塾
第3章 何はなくとも今のあなたが
――深刻な不景気編 '96〜

1.年収はアップしたけれど

 バブル崩壊が始まったのは、1990年の年初である。2004年でちょうど十五年めになる。今日まで、景気は回復の動向を見せることもあったが長続きはしなかった。
 芝通の業績が下降の一途をたどる1996年。景気とはうらはらに、関口ルミ子の年収は、前の年よりも二百万円アップした。山田祐子やみどりも百万円以上アップしている。電機メーカー各社、ベースアップはわずかというご時世、彼女たちの年収を上げたものは何であろうか?

              *

 沼田は、寒さで目が覚めた。横では、関口ルミ子が掛け布団を独り占めしている。沼田の勤める会社、武蔵テックは、従業員が15名ほどで、電機メーカーからソフトウエアの詳細設計を受注して成り立っている。
 きのうの夜、沼田は毎年恒例の会社のクリスマスパーティに参加した。ホテルの一室を借りての立食形式。沼田は上司の萩原の横で、ウイスキーをロックであおっていた。ふと、社長の長田と目が合う。沼田の方を向き、手招きをするので、萩原と二人でそばに寄る。
「やぁー、一年間、よくやってくれた。感謝してるよ」
 社長の長田は上機嫌である。
<きっと、ほかの奴にも同じことを言っているのだろう>
 沼田は自分の気持ちを悟られないように、作り笑いを長田に返す。ウイスキーをロックで飲み続けたせいか、椅子に座りたい気分になっていたが、長田の話は終らない。「80年代はよかった。このくらいの詳細設計だったら、今の倍の値段で見積もり出せたもんなぁ」
 長田は親指と人差し指を広げて設計書の厚さを示す。沼田がこの話を聞くのは三回めである。
「社長、飲んで昔話をすんのはいいけど、ボーナス、もうチビッとあってもよかったんじゃ……。ハハハ、冗談ですけどね」
 沼田は、最近、酒乱気味だと思いながらも絡まずにはいられない。 この一ヶ月間、武蔵テックは、芝通からの新規受注は一つもなかった。一件、二ヶ月納期で仕上げるとすると、二ヵ月後、芝通向けの仕事はほとんどなくなる。ほかの取引先の仕事もわずかしかない。
「社長。なんとかならないんっスか?」
 沼田はろれつの回らない口ぶりで長田を見上げる。長田は、苦笑いを顔に浮かべて背を向け、ほかの社員のほうに歩いていった。
「なんだよ。状況が悪くなったら、逃げかよ。ちょっと待てよッ! こっちの話は終ってないんだよ」
 沼田は、何かに操られているかのように、長田の胸ぐらを掴む。
「なんだね!? 君はッ!」
 長田は、目を充血させて「俺は社長だぞ」と沼田を睨み返す。
「だからどうした?」
 沼田の拳は、長田の左頬に向かった。

「どうしてあんなことしちゃったんだろう?」
 公衆電話のボックスで関口ルミ子と話しているうちに、酔いが覚めてきた。
「落ち込んでるんだ? なら、うちにおいでよ」
 戸惑いはあったものの、足はルミ子のアパートに向かった。

「沼田君ってさあ、心の中に怒りっつー感情がない人だと思ってた。でも、やる時はやるんだね。安心したよ」
「僕だって人間なんだから、怒りとか、悲しみくらいあるよ」
「普段、怒りを抑えている分、表に出るときは激しいのかもね」
 ルミ子は麦茶をいれ、沼田の前に置く。ルミ子は二年前から、芝通の子会社に出向している。
「出向先の会社ってね、『三人、人を雇うくらいなら、残業はいくらしてもいいから、二人で仕事をこなせ』っていう感じなの」
 ルミ子は、土曜日出勤は当たり前、三週間休みなしということもよくある。労働組合もないので、働きすぎを注意する人もいないのだ。
「過労死が出ないのが不思議」
「僕は過労死とは無縁なヒマ人になるのか……。これから何をして生きていったら、いいのだろう?」
 沼田はタバコに火をつけた。

              *

 山田祐子はパソコンに表示されている時計に目をやる。22:59。また、五時間残業である。仕事を切り上げるタイミングがつかめない。外注費削減が打ち出され、以前なら外部に発注していた仕事も、芝通のエンジニアがやるようになったのだ。
「な〜んで、こんなことまで私がやんなきゃいけないのよ!」
 出向先から戻ってきたみどりがぼやいていたのを思い出す。が、残業規制もなくなって、手取りが増えたから文句も言えない。
 当時、芝通の基本給は安かった。残業手当がつかないと、勤続数年でも手取り二十万円前後という人もいる(それでも、福利厚生がしっかりしているので、生活にゆとりがないわけではないのだが)。
 それはさておき、芝通の場合、残業手当てがつくと手取りが大きく違ってくるということだ。ルミ子、祐子、みどりたちの年収がアップしたのは、残業手当が増えたおかげなのである。
 その一方で、経費削減のあおりを受け、外部発注業者は窮地に立たされていた。

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