5時から作家塾
第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

6.約束された場所もなく

 夕方、水道橋のホームに大久保は現れた。オフホワイトのジーンズにブルーのシャツを合わせている。
「今日は、Tシャツじゃないのね」
「オレだって、シャツぐれぇ持ってるよ」
「私ね、母校が見たくなっちゃったの」
「いいよ」
 二人は歩き出す。後楽園を抜けて春日通りを池袋方向に歩くと、校舎が見える。
「灰色にくすんでいる気がする。昔は、もっと真っ白だったのよ」
「卒業してから六年も経つから、仕方ねーよ」
 大久保は校舎を眺めてそう言った。
 二人は神楽坂駅まで歩いて、地下鉄に乗り、大久保の母校を見たあと、新宿まで出て、大久保が学生の頃よく飲みに行ったという店に入る。
「キューブリックのほうはどうだ?」
「いくつかバグは出たけど、解決した。あと一週間くらいで芝通に帰れると思う」
 大久保は、「それはよかった」と呟き、日本酒を飲み始め、みどりは、焼酎のお湯割りを頼んだ。
「キューブリックの人たちはどう?」
「みんな仲がいいの。人類みな兄弟。互いに愛し合いなさい、みたいなかんじ。お互いの過ちを許しあってるというか、はっきり言って過ちが多いともいうか……」
「よくわかんねーけど、うまくやってんだ。よかったな。みどりちゃんって、不器用なとこあるじゃん? 山田祐子とか心配してたゾ」
「なんて言うのかな……、ネクタイ、背広が似合う人って、素適だと思うけど、やっぱりTシャツ着ている人が好きなのよ、私は。タバコ吸う人のほうが好きだし。女の子が喜びそうなことをペラペラ喋らなくてもいいの。口数は少なくても、行間いっぱいに音にならない言葉が詰まっている人がいいの。話は面白いほうがいいんだけどね。それから、頭がよくって、仕事ができて。オフコースを唄ってくれて……、そーゆー人がいいの」
「オフコースといえば、永沢さんだろ。まだ、寮で隣りなんだ。相変わらず毎晩オフコース聴いてんだぜ。仕事もできるし。みどりちゃん、永沢さんみてーのが好きだったんだ? 言っといてやるよ」
「違うの!」
 大久保は、みどりの瞳を覗き込む。何か悪いこと言った? という顔だ。みどりは頭を横に振る。大久保は、指の関節を鳴らしたあと、首を横に曲げてポリポリッと鳴らす。
「今日はさぁ、実家に戻るって、親に言ってんだ。だから、もうそろそろ行かないとなぁ」
 大久保は時計に目をやる。
「恋人の優しさも知らない私には、楽しいはずの週末も、ただ気が重いだけ」
 みどりは呟いた。
「何か言った?」
「ううん、好きな曲の歌詞を呟いただけ」
「なんか、今日のみどりちゃん暗いね」
「かもね」
「みどりちゃん、八王子だよな。オレの実家、西武新宿線だから。じゃぁ」
 大久保の背中が離れていく。
「『仕事ができる人が好き』って言ったけど、もしも、大久保君が仕事ができない人になっちゃったら、私は、『仕事ができない人が好き』って言うの。大久保君が禁煙したら、タバコを吸わない人が好きになるの」
 みどりは、人ごみの中に消えていく大久保の背中に囁いた。
 女の幸せは、お金持ちと結婚することでも重役夫人になることでもない、喜びも悲しみも分かち合える大切な存在がいるかどうかなんだと、みどりは思う。

                    *

 みどりは大久保を見送ったあと、千春を誘い、銀座で飲んでいる。
「私はね、大久保君と朝まで一緒にいたかったのよ」
 みどりはビールを一気に飲む。
「口説かれたら、どうした?」
「そりゃぁ、もう、ホイホイと……。素裸になって、互いの性器を舐め合って……、そんでもって■※○×▲◇っつーつもりだったんですけど」
「気持をわかってもらうどころか、伝えられもしなかったのね。もしかしたら大久保君の週末は、もう先約で埋まっていたりして。私、そのテの勘は外れたことがないの」
「マジ? ガッ〜〜ン。――そう言われてみると、思い当たるフシもあるような……」
「話を聞いてると、大久保君って、心の奥底は優しさでいっぱいみたいじゃない? きっと、みどりさんが傷つくことなんて、言えなかったんじゃないの。まあ、本当に先約で埋まっていたかどうかは、今度会った時にでも確かめてみれば」
「やっぱ、私って、ひとりきりで生きていく女なんですかぁ〜?」
「いいじゃない、仕事だけっていうのも、悪くないわよ」
「そんなー。お金貯めて、近くに引っ越して、大久保君と一緒に過ごす週末を夢見てた私は、おバカ? 今度は千春さんもご一緒に、サンハイ、ガッ〜〜ン」
「付き合いきれない」
 千春は呟く。
「でもね。私の『大久保君が好き』っていう気持は変わらない。大久保君の週末がほかの人で塞がっていたとしても、『大久保君は大切』なの。もちろん、大久保君の週末がまだ空いていて、大久保君が私のことを受け入れてくれたら、飛び込んじゃうよ。でも、それは大久保君が決めること。私はそれを受け入れるしかないの」
 千春は返す言葉を探すようにみどりを見つめる。
「みどりさんって、大久保君の話をしているときって、すっごく楽しそう」
「わかるぅ? 大久保君のことを想っていると、幸せ気分でいっぱいになるのぉ〜。私の心には大久保君が必要なのよ」
 千春は「おめでたい女だこと」と口にしそうになって噤む。
「大久保君って、どんな人だか会ってみたいわ」

 千春も独身である。が、バツイチ。元夫もキューブリックの社員らしい。
「別に元夫が浮気したとか、そういうのじゃないの。キューブリックにしては珍しいでしょ」
 あっけらかんとしている。
「別れても同じ会社で仕事続けてるのって、顔合わせた時イヤじゃない?」
「べつに……。吹っ切れたしね」
「どうしてダメになったの?」
 みどりは、目の前に知りたいことがあると、どうしても知ろうとする。時には、それがもとで地雷を踏むことになるのだが、みどりは気づかない。
「喧嘩が絶えなかったのよ。例えば、私が眠りたいのに灯りを消さない彼が許せないとか、そういうこと。自分の手なら、灯りを消しにスイッチに手を伸ばすでしょ。でも、彼はしてくれない。今から思えば、私は、彼を私の身体の一部にしようとしていたのよ」
「結婚すると、そーゆーことも問題になんのねぇ。やっぱ週末だけ会うのっていいでしょ?」
「あの頃はそんなこと考えもしなかった。結局最後は、何しても、腹が立って仕方なかったわ。私が洗い物していても声ひとつかけないことや、ご飯食べた後で新聞読んでるのにもムカムカ来ちゃって、『風呂掃除くらいやりなさいよっ』とか怒鳴って。そうすると、もう喧嘩。彼も『新聞くらい読ませろよ』って言い返して来て。そのうち彼は怒り出して、新聞をたたきつけるの。私も罵ったりするわけ。『私だって働いてんだから自分の布団くらいたたみなさいよっ』とか、『ほら、言ったでしょッ。脱いだ服を出しっ放しにするから、皺だらけになっちゃった。私の言うとおりにしないから、いけないのよ』とか。あらゆることで怒鳴り散らしたわ」
 みどりは、千春の顔を見つめる。
<千春さんって、綺麗な顔をしてるのに結構怖いかも……>
「怒鳴らない時は、無視をしてた。話しかけられても、返事しないの。『あなたは、そこに存在していないのよ』って、態度で示してあげたのよ」
 みどりは、左の眉だけを上に吊り上げる。
「前に、芝通のファックスと通信ができなくて大騒ぎになったことあったでしょ」
 みどりは千春に言われ、磯子と交信試験をした時のことを思い出した。
「あれを見て思ったんだけど……。ファックスの通信ってさぁ、男と女の関係に似ている気がする。うまく行かなくなると、『あんたが悪い』って、お互いに罵り合ってしまうでしょ。でも、本当は、両方が悪かったりするんだよね。でも、『やっぱり私は悪くない』って、いつも言っちゃうの。どしても私は私を変えられなかったのよ。今なら、わかるんだけど」
「罵りあう?」
 あの時は送受信両方が芝通だったので、穏やかだったはずだ。相手が竹下電送だったりすると、遠慮なくボロクソ責めるのだが、みどりはそのことは黙っておいた。
「私は結婚しても、仕事を続けていたでしょ。彼の収入がなくても、一人で生きていけるくらいの給料はもらってたから、出て行く決心は早くついたの。本当は、彼に家事を手伝わせたいわけじゃなかったのに、彼を束縛して自分の思い通りにしたかっただけ。家事なんて全部私一人でやろうと思えばできたもの。平日、彼が仕事のことで頭一杯だと、彼の気を引こうとして、『あーしなさい、こーしちゃだめ』って言っちゃうの。自分のことだけを見てて欲しいっていう願望が強かったのよ、私は。結局、何も聞いてくれない彼を憎んで、疲れはてて出て行ったの」
「だから、平日は一緒にいないほうがいいのよ。週末だけなら、彼とやり直せるんじゃない?」
「彼は私と別れてせいせいしているでしょうから無理ね」
 入社してずっと芝通に浸かっていたみどり。キューブリックの千春は、今までに出会ったことのないタイプの人間である。
 みどりは、もっと彼女を知りたい、と思った。

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