5時から作家塾
第2章 なにぶん景気が悪いもので
――バブル崩壊直後編 '90〜'95

10.やがて悲しき持ち株制度

 夫の給与を管理するのは、夫自身か、それとも妻か?
 芝通には、給与全額を妻に渡している家庭が多い。給料日になると、妻が夫に小遣いを渡し、残りを妻が蓄財(散財?)するのである。
 人それぞれだが、芝通のエンジニアの小遣いの額は平均的にどのくらいであろうか?
「小遣いの大部分は、昼食代に消えてしまうんですよ」
 そう言ったのは、都心のオフィスに勤めるサラリーマン。周りは老舗ばかりで、ランチタイムが何よりの楽しみだそうである。しかし、芝通多摩工場のエンジニアは、小遣いに昼食代は含まれない。なぜなら、社員食堂は従業員カードで支払うキャッシュレス方式で、翌月の給与から天引きされるからだ。美味しい店が少ないこともあって、滅多に外へは食べに出ない。
「飲み会は月一回くらいかな。独身の頃は、毎週行ってたけどね。仕事が忙しくって、お金を使う時間がないんだ」
 このようなケースだと、小遣いは月二〜三万円である。中には、飲み代、散髪代は別とはいえ、一ヶ月一万円以下の人もいる。
「僕は、暇を見つけては、釣りに行っているから、小遣いは五万円以上ないと……」
 パチンコ、競馬、テニスに車、etc. 趣味がある人は、寛容な奥様にお願いして小遣いに趣味代を上乗せしてもらう。結局のところ、ばらつきは大きいが、概して営業職に比べ、エンジニアの小遣いは少ない?

 それはさておき、妻に生活費だけを渡し、残りは全て夫が管理するという家庭もある。例えば、部長の中村がそうである。今回は、中村の財布のお話し。

                      *

 中村は、給与から、社内預金と、財形貯蓄の積み立てを行っている。1980年代、社内預金の利率は6%。1990年代になっても、この利率は維持されたが、郵便局の定額貯金の利率が2%を切った頃、社内預金の利率も3%に下がった。(現在、社内預金制度はなくなっている。)
 景気が良かった1989年初夏。中村は部長席につき、一枚の通知を見ていた。「持ち株通知書」。中村は社内預金と、財形貯蓄のほか、毎月、芝通の持ち株制度(加入者は金額を決め、その額で買えるだけの芝通株を購入していく制度)に加入している。芝通の株価は千円を超えた。五年前は370円台を上下していたのにだ。中村は千株売却の手続きを済まし、電卓を叩いて利益を計算すると顔が緩んだ。

「こちらの商品は、株式投資信託といいまして、投資家の皆様から集めたお金を専門の投資信託委託会社が運用して、その成果を出資額に応じて投資家の皆様に還元するものです」
 証券会社のカウンターに腰掛けている中村は、担当者から勧められた投資信託を購入する。一ヵ月後、平均株価はさらに上がる。
「月々、芝通株を買っていても、たいした儲けは出ないよなぁ。まして、社内預金なんて100万円預けても一年で6万円しか利息がつかない。今までチマチマと貯めていたのがバカらしくなるよ」
 中村は銀行の定期預金を解約して、よりリスクもリターンも高い商品に投資した。
 株で儲けたうえ、部署の業績も上がっている。部長になったのち、年収も1千万円を超え、給料は上がり続けている。
<全てが思い通りにいっている>
 中村はまるで自分が神になったような気さえしている。
「こちらは、元本保証はなくリスクもリターンも投資家に帰属します」
 証券会社の説明なんて耳に入るはずもなく、中村は金融商品を買い続ける。さらに郵便局の定額貯金も解約し、建設会社熊本組の株を購入した。
 中村の副収入は、競馬、パチンコ、貯蓄、etc. に費やされたりはしなかった。お金が流れた先は――。

                      *
 中村は、レディスティーに立つ藤沢美香に視線をやる。美香と二人きりでゴルフコースをまわるのは三回めである。美香はしゃがんでティーを土に差し込む。白いキュロットから、かすかに下着が透けて見える。初心者の美香は150を切ることが目標だと言っていた。
 芝通を寿退社した美香は、付き合い始めの頃は、乗り気ではない態度を中村に見せていた。
 そんななか二人は会う回数を重ねていく。中村が連れて行く店はエスニック料理店ひとつでも、ほかでは食べられないようなメニューがあるようなところ。話は面白いし、セックスもいい。やがて美香はそういったレベルではなく、強烈に中村に引き寄せられ、捉えられてしまったのだ。
「今まで探し求めていた人に、やっと会えたことに気づいたの」
 最近は、美香から誘いの電話をかけるようにさえなっていた。
 根が理科系な男性は、女性に積極的に声をかけないし、結婚したら家庭外で繁殖活動を行わないものである。が、出身学部は理科系でも、「重複」して繁殖活動を行う人もいる。磯子、中村……、彼らがそうだ。中村は、副収入を美香と愉しむために使っていた。

                      *

 中村の財布に、話を戻そう。
 1992年秋。中村は、証券会社の通用口のインターホンを押す。営業時間は終わり、シャッターは閉まっている。中に入ると、ほかに客はいない。証券会社の担当、砂城はプリントアウトされた紙を中村に手渡す。頬を引きつらせながらの笑顔。
 7513 5466 4122 ……。額面が一万円の投資信託の現価格である。
「これを今解約なさると、大きく損をしてしまいますから……」
 砂城は申し訳なさそうに言う。中村は、株価が表示されているボードに目をやる。インスピレーションで買った建設会社熊本組は、海外事業に失敗して株価は暴落。倒産しそうな勢いで下がり続けている。
「なんとかならないんですかねぇ」
 砂城は黙ったまま、辛そうな表情で、頭を下げた。
 中村は証券会社を出て家まで歩く。タクシーに乗る気分ではないのだ。美香と付き合い始めた頃に買ったゴルフ会員権が、十分の一に下落したのも痛手である。「景気はすぐ回復する」といった情報を鵜呑みにして、手放さなかったのがいけなかったのだが、今となってはどうしようもない。
 1987年頃なら、持ち株、社内預金、銀行などの預貯金を合わせると、二千万円はゆうに超えていた。今は三分の一にも満たない。

 家に戻るのも気が重い。バブル前に買った庭付き一戸建ての家。返済額は安くはない。中村は、リビングに飾ってある絵画が頭をよぎる。バブル最盛のとき、「この画家が描いた絵は、十倍に跳ね上がる」と言われて買ったものだ。しかし、質草にもならないことに気づいたのは、つい最近である。
 騒音がして、中村は我に帰る。マンションの建設現場で、クレーンが鉄骨を引き上げている。不景気だというのに買う人もいるのだ。
『あなたもマンションのオーナーに』
『頭金ゼロ』
 投資用マンションのようだ。ノンバンクからお金を借りると、月々の返済額は八万円になるが、それを十一万円で人に貸せば、月に三万円の儲けが出る。不動産価格が下がり始め、不動産賃貸業の収益率が高くなったことが、当時流行った理由のひとつでもある。
 中村は深く考えもせず、気軽な気持で立ち寄った。
「また景気がよくなったら、こちらの物件は、このお値段では買えなくなります」
 営業担当者の説明を聞いているうちに、すっかり乗り気になる中村。
<何もしないで、三万円が入ってくる>
 こんなおいしい話があっていいのだろうか? いーや、よくない。今なら、誰でもそう思うだろう。だが、マンションのパンフレットを眺める中村は、担当者と契約の日時まで相談していた。



[5時から作家塾]トップページ