5時から作家塾
第1章 こんな私たちでありますが
――バブル編 '85〜'89

2.漢字も書けない

 理科系な人間の中には、コミュニケーションを苦手とする人が多い。
「どうして、こんなことを思いついたの?」
 すばらしいアイディアをほめたとしても、彼らは、「別に、なんとなく……」と答えるだけである。自分の内面を言葉で表現することが苦手というか、口下手だし、文章といえば設計書かレポートしか書けなかったりもする。

                    *

 永沢力は、ファクシミリの電気設計を担当している。京都にある私立大学の電子工学科を卒業後、芝通に入社した。1985年当時、入社四年目になっていたが、仕事は順調で、次開発機種/コードネーム「Z30」では、電気設計主担当に抜擢された。
 研究、開発の仕事は、しばしば霧の中を手探りで進むようなことに出くわす。納期までに新製品が出来上がっていれば問題ないが、そこは芝通のエンジニアだって人間。納期が一週間に迫った時に、問題山積みで出荷できない、ということだけは避けたい。手遅れになる前に、進捗の確認と問題点の整理をして、次のステップに進むかどうかを判断する会議、デザインレビューを二ヶ月に一回くらい行うことになっていた。(ここでいうデザインとは「設計」のこと。)
 その日、予定通り「Z30」のデザインレビューが始まった。OHPの電源が入り、室内は暗くなる。永沢はペンで指しながら説明をする。
「このZ30という機種は業界初、低価格家庭用ファクシミリです」
 メタルフレームのメガネと、無表情な話し方が桐畑に似ている。
「今回のSP(販売価格)は25万円を切ります。で、TOV、工場から本社への卸価格は8万円となります」
 出席している製造、品質保証、サービス部門の面々からどよめきが起こる。当時、ファクシミリは主にオフィスで使われており、価格が数十万円以上もするのが当たり前だったからだ。スーツ姿の営業は腕を組んだままうなずいていた。
 質問の時間になると室内が明るくなる。最初に質問をしたのは、品質保証課の課長、雛形である。
「画像シンシツはどうなんだい? 小さくするからって、質が下がっちゃぁいけないなぁ」
 雛形は下町出身で、「ヒ」を「シ」と発音する。電話をかけるときは、「芝通、シン質保証部、シン質保証課のシナガタですが――」と言う。まわりがクスクス笑っても、気にしない。
「……画像シンシツ?」
 永沢は、頭の中で画像品質と言い換えてから、ホワイトボードを使い、予想される問題点と対処方法を説明する。小学生のような字であるが、応答は完璧。永沢の答えは、雛形に付け入る隙を与えない。その時だ。
「おい、そのくらい漢字で書きなよ!」
 雛形の声で視線がホワイトボードに集まる。そこに書かれた文字は――。
[き ろ く し]
 ひらがなである。永沢は照れ笑いを浮かべ書き直す。
[記 緑 紙]
「それじゃぁ、キリョクシだよ、キ・リョ・ク・シ」
 間違いに気付いた永沢は、ホワイトボードの前で固まっている。金偏が出て来ないのだ。皆が永沢の手元を注視している。結局永沢は、「緑」の糸偏の上をマジックでグチャグチャとそれっぽく黒く書いた。字が汚いので、「記録紙」と見えなくもない。
 もちろん、永沢はエンジニアとしては優秀である。卒業した大学も私立理科系ランキングでトップ5に入る。しかし盲点があった。それは何か? 私立理科系は入試科目に国語がないのだ。読み書きが苦手でも入れるのである。私立理科系出身者の中には、口下手に加えて、文章能力が低く、おまけに中学生でも書ける漢字が書けない人が存在するのだ。
 したり顔の雛形は、
「この間、芝通が開発した個人向けワープロ。あれさぁ、『取扱い説明書がわかりづらい』っていうクレームが来てんだよな」
 と告げる。きっと、そのワープロの取扱い説明書を書いたのは、私立理科系出身のエンジニアだろう。
「ファクシミリもこのまま行けば同じだな。こんな取説じゃ読む気がしないもんなぁ」
 雛形は先月発売になったファクシミリの取扱い説明書を手で持ち上げ、もう片方の手で弾き、
「Z30は、薄利多売なんだろ? 機械に慣れてない人もユーザーになる。そういう人にもわかりやすい取説を作ってくれなきゃなぁ」
 と言った。
 取扱い説明書は、機械設計部品扱いである。課長の日野が欠席しているので、みなの視線は機械設計担当の桐畑に向く。
「シノ君はどうしたんだい?」
「日野ですね。本日は、別件で出張しております」
「あーそう。シノ君には、このこと話してあるから、よく聞いといて! とにかく今のような取説じゃ、量産オッケーは出せないな。いいねッ」
 芝通多摩工場の場合、設計部が開発したものは、品質保証部の試作認定試験に合格しないと量産を開始することができない。ことあるごとに、雛形は口うるさく指摘するのである。事前にユーザークレームを防げるということもあるのだが、あまりにもうるさいので、設計部門の人間は閉口することも度々であった。

 ところで――。芝通は、会社の歴史も体制も古い会社である。従って、誰もやらなかった新しい商売を始めて儲ける類のことは得意ではない。しかし、技術に関しては、業界初をやってのけることにこそ価値があると考えていた。あまり知られていないのだが、世の中には、芝通が発明したものも多くあるのだ。
 「Z30」は業界初の、個人向け、低価格ファクシミリである。重さ・大きさ・価格……を今までの三分の一以下に抑える。そのようなことが可能なのであろうか。
 1980年代は軽・薄・短・小、低価格化がもてはやされた。ウォークマン、家庭用VTR。電機メーカー各社が競って個人向け商品を開発した時代で、それを支えたのは半導体の進歩――メモリ容量の増大、集積技術の飛躍――だった。
 「Z30」は、不要な機能を排除して、必要最小限の機能に絞ることで、重さ・大きさ・価格……を三分の一以下にすることが実現可能と判断したのである。しかし、企画が上がった段階で、誰一人として「できる」と確信しているものはいなかった。もちろん、永沢も桐畑も直感で「できる」と判断しただけで、確固たる見通しは持っていない。
 リスクがありながら、家庭用ファクシミリを開発しなければならないのには理由があった。この当時既に、ファクシミリは広くオフィスに行き渡り、新規に設置する台数は減少し始めていた。そこで、新たなユーザーとして家庭がターゲットとなったのである。家庭で使うようになれば、そこに新たな需要が発生する。
 芝通では先に個人向けワープロ、UPO(ウポ)を開発し、これが人気を呼んで、芝通のワープロ市場のシェアは上位に昇った。ファクシミリもこれに続こうと、家庭用「Z30」を開発することとなったのだ。
 はたして芝通は、家庭用ファクシミリの開発に成功し、市場シェアをアップさせることができるのだろうか?

                    *

 その頃、芝通のファクシミリ部門は、フルモデルチェンジには十ヶ月かけていた。一年前なら十二ヶ月以上あった開発期間が短縮され、1万メートルを全速力で走り続けるランナーのように、エンジニア達は他社より先を行こうと必死である。
 ところが、配属されたばかりのみどりには、これといった仕事がない。そのうち、自分の仕事ができるのだろうと、席について暢気に構えていると、
「小林さんに、Z30の取扱い説明書を任せたいのだけど……」
 と桐畑に告げられた。みどりは私立理科系の出身である。
「あのぉー」
「大丈夫です。それから、実験室に他社製品が置いてあった理由がわかりました」
「なんだったんですか?」
「これを手に入れるためだったのです。先ほど日野課長から手渡されました」
 桐畑は、みどりに他社の取扱い説明書を見せる。他社製品を買ったのは、取扱い説明書を調査するためだったらしい。ファクシミリの取扱い説明書は、機械部品に属する。日野のところには前もって、ワープロの取扱い説明書で起きたクレーム情報が入っていたのだ。
「それから、これは家庭用電化製品部門から借りました」
 芝通は、ハイテク企業である一方、エアコンや冷蔵庫といった家庭用電化製品も作っていて、家電メーカーだと思っている人も少なくない。が、電力会社向けシステムも造っているわけで、要するに電機関係ならたいていのものは揃えているメーカーである。
 桐畑がみどりに渡したのは、芝通の電気釜とオーブンレンジの取扱い説明書で、「取扱い説明書作成マニュアル」までついている。
「別に、ヘミングウェイが書くような文章を書けと言っているのではありません」
 桐畑はみどりに言う。
「ヘミングウェイ? あのロシア人作家の――」
「いいえ、ヘミングウェイはアメリカ人です」
「私、取説なんて作れません」
「なぜですか」
 桐畑は、メガネを外して左手の人差し指で目頭をこする。へばりついた目ヤニをこすり落とすような仕草。話が伝わらない苛立ちを抑えている。
「国語苦手だしぃ……」
「お願いがあります。これから、私に『できない』と言うときは、全てのできない理由を探し終わってから言ってください。できるときの理由はひとつでけっこうです。できない理由を全部探し出すより、ひとつだけできる理由を探し出すほうが簡単なはずです」
 桐畑にしては、かなり長い言葉だった。みどりは渋々取扱い説明書を手に取った。

「機械工学科を卒業して取扱い説明書を作るなんて思ってもみなかった」
 みどりは、向かいの席の桜井に言う。ちなみに、みどりが理科系に進学した理由は――。
 みどりは小さい頃は、本を読むのが好きだった。だが、読むのは『太陽系の謎』と『ピタゴラス物語』の二冊だけ。母親は、百回以上も繰り返して読むみどりを心配そうに眺めていた。みどりは理科と数学は得意だが、国語が苦手なせいで、私立理科系の大学しか受からなかったのだ。
「国語ができていたら、実験やレポートで忙しい理科系の学科は選ばなかったっス」
 みどりは桜井にぼやく。
「それなのに、小林さんったら、国語力がものをいう仕事をすることになるとは、人生わからないものねぇ」
 桜井も私立理科系である。みどりは、桜井の女性的な態度にも違和感を抱かなくなっていた。慣れてきたのだ。
 とりあえず、みどりは手渡された取扱い説明書を開いた。

 結局、他社の取扱い説明書はどうだったかというと、……立派だった。芝通の家電部門のものも、消費者対象の製品を長年数多く扱っているだけあって、ノウハウが蓄積されている。
『注意書きは目立つように書く。簡単な理由を添えると説得力が増す』
 みどりは「取扱い説明書マニュアル」の文面を読みながら、うなずく。家電部門は、細かいことまで気を配り取扱い説明書を作っている。
 みどりは、竹下電送の取扱い説明書には、吸い寄せられるように読んだ。勉強になるところが多いのだ。構成、説明の順序にも工夫があり、機能説明、注意書き、どれをとっても簡単な言葉で、説得力ある文章で書かれている。イラストも親しみが湧いてくるような絵で、ほどよく説明を補足している。みどりは、結果をまとめ、「Z30」の取扱い説明書の作成に取りかかった。
 はたして、国語力の極めて低いみどりが、取扱い説明書を作ることができるのであろうか?

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